東風 |
東風 色も、形もないのに、つい見とれてしまった。 吹き上げられる、大気の塊。 「また春が巡ってくるのねぇ」 間延びした声。 まだ眠気を覚えるそれは、床に臥しているはずの、薫のものだった。 「無理して話すと、また声が出なくなるぜ」 弥彦は薫の傍に歩み寄る。縁側まで出て来ていた薫は、丁度裸足で地面に降 りようとしている所だった。 「寝てろって」 「眠くないんだもん」 薫は楽しそうに笑うと、案外しっかりした足取りで庭を歩き出す。 いつしか――日に焼けることを忘れた痩せた足が、冬から春へと転じ始めた 大地を柔らかに踏み、 土が随分温かくなった。そう言って、また笑った。 「・・・温かくなった、ってお前、前にも?」 「・・・だって、気になったの」 今度はちら、と誤魔化しの笑いを浮べ、そのまま庭の小さな桜木に、背を預 けた。 着物の裾を慣れた所作で捌き、足を折って根元に座り込むと、少し上空にあ る細い枝に手を伸ばす。 黒々とした枝に、まだ花の気配は無い。 「・・・恵に言いつけるぞ。床に縛り付けとけって言われるかも」 薫はまた笑った。それがまたやけにのんびりとした笑い方だったので、弥彦 は少々苛立った。 「・・・まだ桜はずっと先ねぇ・・・」 「―――オイ薫、お前本当に」 「まだ、先なのね・・・・」 やや掠れた緩い息の合間に、ぽつりと呟かれた言葉。 「・・・・・・・・・・・・・・薫?」 其れっきり返答のなくなった薫の顔を、弥彦は慌てて覗き込む。 透けるような面を覆う、黒い髪が一筋、二筋。緩やかに風に揺れている。 その下―――痩せて、そのせいか、何処か寂しい風を漂わす肩は、緩やかに 上下に動いていた。 「―――っ・・・・何だよ・・・びっくりさせやがって―――」 少し青ざめた顔で、彼は呟いた。 「どこでも寝るんじゃねぇよ、お前は餓鬼かっつうの・・・」 傍若無人な彼の師匠に腹を立てつつ、隣で眠る彼女をよいしょと背負いあげ た。 その身体は、彼が成長しただけばかりでなく、苦も無く動けるほど、軽い。 その軽さに相反して、彼の心臓辺りがぐっと重さを増した気がした。 「いい年、して―――いつまでも弟子に手間掛けさせるなよな」 背負い上げると同時に、また一際強い、東風が吹いた。 北風のように冷たくは無い。春の訪れを孕んだ暖かな風。だが弥彦はその強 さに一瞬驚き、そして目を瞑った。 (・・・すまぬな) ごおっと勢いよく駆け抜けた行った風を追い、弥彦は視界を開くと、そのま まそれを空高く上げる。 弥生の空は春風を受けて、優しい浅黄に色づいていた。 「・・・大丈夫さ。ちゃんと、守ってやるから」 (・・・だから、まだ) 縋るような祈りは沈黙のうちに沈めて。 弥彦はそう答えると、背中に回した腕に少し力を込めて―――ゆっくりと家 に戻っていった。
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よく読みこむと、悲しくもあり、優しくもあるお話ですね(><) 剣心亡きあとの、薫殿と弥彦のお話でした。(と管理人は解釈しました。) なにやら、せつなくてまともなコメントができなくてごめんなさい! ピューリタン革命さん、有難うございました! |