*春風の向こう側 *

春風の向こう側

 

春上旬といえども、まだ気温は低さを保ち、

雨は十分に冷たく降り注ぐ。

折角開こうとした桜の花もその寒さに

身を潜めていた。

 

「あー…頭いてぇ…。」

 

左之助は、雪の降るようなこの寒い冬でも薄着をしていたせいか、

珍しく、体調を崩していた。いわゆる、世間様が言う、一般的な風邪の症状が出ていた。

『風邪』なんてものは、左之助にとってはきっと初めての体験というものだっただろう。

長い連戦の中、まだ癒えきらない傷がある。

そんな最悪の条件がそろった、初めてかもしれない『風邪』というものだった。

 

 

「ちきしょー…風邪でも腹は減りやがる…。」

 

今まで風邪らしい風邪を引いたことがなかった左之助は

部屋のど真ん中に布団だけ引いてその中でただ寝転がっていた。

それでよくなるはずもなく、それどころか、何も食べていないため

体調はどちらかと言えば悪い方へと進んでいく。

 

「………。」

 

愚痴を言うのもいささか飽きる。

熱で頭がぼーっとしてきた。

そんな自分をおかしく思うのか、左之助は情けなさそうに頭をかく。

 

カタン。

 

「…?」

 

左之助が物音を聞き、そちらの方へ向き直ると長屋のふすまのにふっと人影が映った。

その人影は一度、遠慮気味に離れた。が、覚悟を決めたかのように入り口へ立つ。

 

「……?」

外は雨。傘をさしているから、全体像はよく見えない。

ただ、だいたいの検討はつく。

左之助の長屋へやってくるのは、限られた人間しかいなかった。

 

 

――刀を帯びちゃいねぇ。

じゃあ剣心じゃねぇ。

 

――あの身長じゃ弥彦でもねぇ。

  嬢ちゃんでもねぇだろうな。

 

 

熱でうかされている頭で左之助は

精一杯、思考回路を働かせた。

 

パタン。

その人影は傘を閉じるとまたしばらく戸の前で立ち止まった。

屋根などないに等しい長屋では十分に濡れてしまう長さ、

その人影はもう一度ためらう。

 

――まさか…

 

カラ。

遠慮気味に戸が開き、その人影と目が合う。

左之助が起きていることを認識したその影は

今度は勢い良く戸を開け、閉じる。

 

パタン。

 

「め…恵?」

 

まさか来るとは思っていなかった人物が其処には立っている。

長い髪をなびかせ、形のいい唇に赤い紅をのせ、凛とした雰囲気を漂わせる。

先ほどの雨に打たれその黒髪は艶やかに光っていて。

ほとんどの男が見とれるでだろう、

大人の女性の雰囲気を存分に醸しだしていた。

 

「…やっぱりね」

 

恵は左之助の様子を一目見ると、ため息をついて長屋へとあがった。

片手にはいつも常備している薬箱、そしてもう片方には見慣れない

風呂敷が二つあった。

 

あっけにとられている左之助を尻目に

「お邪魔します。」

と、何やらその両手の荷物を家の角に置き、

左之助の寝ている布団のちょうど横にそっと座った。

 

「ほら、さっさと額貸しなさい」

 

すっと白い手が伸び、左之助の少し汗ばんだ額に

恵の少々冷たい手があてられる。

 

「何で俺が風邪引いたってわかったんでぇ…?」

 

熱い額に冷たい手の心地よさを感じながら

左之助は恵に聞く。

 

「…けっこう熱あるわね。ちょっと待ってなさい、今冷やすもの用意するから。

あんたは、それでその、これに着替えなさい。後ろ向いてるから」

 

左之助の質問には答えず、恵は先ほどの荷物の一つを

左之助に渡した。

 

「…おお。」

 

『医者である恵』の指示をそのとおりに守り、

だるい身体を起こし、手渡された荷物に手をかける。

鮮やかな草色に染まった着物だ。寝巻きにはちょうどいい。

せっせと後ろを向いて何かをこなしている恵の後姿に

何だか暖かいものを感じ、左之助は着物に袖を通す。

 

「あんたの一張羅、洗ってあげるからちゃんとたたんどきなさいよ」

 

「…お、おう。」

 

言われて、脱ぎっぱなしにしてあった一張羅に手をかけ、

荒々しく四つ折にし枕もとに置く。

とにかく体が熱くて仕方が無かった。

仰向けに体制を変え、けして広くは無い長屋の天井を見上げる。

 

パシャ。

水がはねる音がして、左之助の額にはよく冷えた手ぬぐいが乗せられた。

春の上旬の雨は時に、驚くほど冷たい。今日も、明け方から何やら雪がちらついていた。

 

そのよく冷えた手ぬぐいを持っていた手は

左之助の熱による赤みとはまた違った赤みをさしていた。

 

――氷ん中手ぇ入れてんのか…?

 

左之助は額に乗せられた手ぬぐいの位置を微妙にずらしながら恵の手元を見る。

その手にはもう一枚、手ぬぐいが握られ、冷たい氷水の中で、丁寧に折りたたまれる。

その冷たい手ぬぐいで、左之助の首筋の汗を丁寧にふき取ると、

恵はまたすくっと立ち上がり、もう一つの風呂敷包みに手をかける。

 

ところが、外の寒さと氷水の所為であろう、

恵の手は微かにかじかみ、上手く風呂敷の包みを開くことができない。

少し時間をかけ、何やら大きめの陶器をとりだす。

 

「どうせあんた何にも食べてないんでしょ、ほらお粥。」

 

パカッとその蓋があけられる。

きっと作り立てを持ってきたのだろう。

少し時間はたっていたがその粥からは温かな湯気がたち、

かすかに梅の良い香りもする。

 

 

「…もしかして梅干だめだった…?」

しばし呆然とする左之助に恵は少しだけ申し訳なさそうに言った。

 

「い、いや…ありがてぇ」

 

いつもの蓮っ葉な態度も変わらない。

口調だって変わっちゃいない。

でも、自分の中で何か違う感情が動き出したのは

この身体をまとう、熱のせいなのだろうか。

 

目の前に置かれたさじを握り、左之助はまじまじと

その粥を見、そして一口、口に頬張る。

 

梅とご飯のみの、いたって質素なものだったが

微妙な味つけが恵の料理の腕を伺わせる。

お世辞でもなく、その粥は美味い、としか言うことができなかった。

 

「…栄養だけは気を使ってあるから…あんただったらきっとすぐ治るわよ」

 

「あ、ああ。わりぃな」

 

半分ほど食べ終わった頃、恵は何かを思い出したように

さっと立ち上がり、荷物をまとめ始めた。

左之助の四つ折にした一張羅を元々持ってきていた風呂敷に包み

きゅっとしばる。薬箱にも手をかけ、何やら薬を取り出すと

食後に飲みなさいよ、と左之助の枕もとへそれを置いた。

 

「治療代、ツケにしといてくれや。」

 

「馬鹿、いらないわよ。どーせ払えないでしょうし」

 

医者の顔を崩し、少し冗談っぽく笑う。

その嫌味の入った、しかし何だか温かい言葉に

左之助は先ほどの感情が膨れ上がってしょうがなかった。

 

「じゃあ、あたしはもう帰るわ。その器は今度の右手の治療の時でも

持ってきて頂戴。今日は一日安静にすること。いいわね?」

 

「なんか今日は悪かったな…ガラじゃねぇけど、なんつったらいいんだ…その、ありがとな。」

 

「…あら、風邪で頭おかしくなっちゃったのかしら?」

 

少し照れた笑いをし、恵は戸に手をかける。

あんだとぉ、と背に聞こえる左之助の怒声にも

ただ恵はくすくすと笑っていた。

 

カラ。

戸が開く。先ほどまで雨だった外は

その気温のせいか、霙(みぞれ)に変わり始めている。

 

「お大事に」

 

傘をさし、背を向けたまま、恵は戸を閉めた。

パタン。

寒空の中、障子に映る影はまたゆっくりと動き出す。

 

「…もう少し、風邪引いとくかねぇ。」

 

その影を見送りながら

左之助は冗談っぽく笑い、そう言った。

 

 END

                                           

リュニュー時に間違って消してしまいました「春風の向こう側」でした。

読んだことない人が多いだろうなぁ、と思い最近探して見つかりましたので

再アップです!

 

2005.3.11

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