夢から醒めて…
―すまない…薫殿…。拙者は流浪人…また流れるでござる…。
愛しい人はそう言って、彼女に背を向けた。
―待って…行かないで!私を置いて行かないで…。
「待って!私を一人にしないで!」
―大丈夫。薫殿は、もう一人ではないでござるよ…。
彼は遠ざかって行く。
「いや…そんなこと言わないで…」
薫は瞳にためた涙を惜しげもなく零し、膝をつく。そして両の手で顔を覆った。
―行かないで…私を置いて行かないで…。
ふと気づくと、彼がこちらを向いている。
薫は一瞬笑顔を浮かべたが、彼の口唇の動きを見て美しい面を凍らせた。
―何て言っているの…?…さ…よ…?
「…そん…な…」
薫は愕然とした。彼が、自分に本当の別れを告げようとしている。
その声が彼女の耳に届きそうな気がして、薫は耳を塞いで叫んだ。
「いやーっ!」
薫は目を開いた。見慣れた部屋の天井が視界に飛び込んでくる。
布団から起き上がって、ため息を一つこぼした。
「今のは…夢…?」
気づけば額にうっすらと汗を浮かべている。それを軽く拭い今度は少し安心したように息をついた。
「どうしてこんな夢…」
見たのかしら、と呟こうとしたとき、視線を感じた。
そちらを見ると、障子の隙間から、弥彦と剣心が何事かという表情で頭を突き合わせ様子を伺っている。
「あ…。おはよう」
おっす、おはようでござる、と二人とも挨拶をしてから弥彦が続けた。
「どうしたんだよ、薫。何かうなされてたみたいだったけど」
二人は心配そうに表情を曇らせている。
その様子に、薫は申し訳なく、また自分を気遣ってくれる人がいることに喜びを感じていた。
―確かに私は一人じゃない。けど―
「何でもないのよ。ただ、何だか嫌な夢見ちゃって…」
心配かけてごめんね、と彼女が微笑むと、二人は安心したように微笑んだ。
「何でぇ、ただの夢かよ。ったくウチの師範代ときたら…」
弥彦にもいつもの憎まれ口が戻っていて、竹刀を肩にかけ、道場へ行ってしまった。
「けれど薫殿?まだ顔色がすぐれぬようでござるな」
「え?そ、そう?」
失礼する、と剣心は部屋に入り、彼女の傍まで来ると、額に彼女より少し大きな手を触れた。
―え?
「ふむ。熱はないようでござるな」
動揺する薫を他所に、呑気な表情で剣心は熱を計る。
「おろ?薫殿、やはり熱があるのではないでござるか?顔が真っ赤でござるよ?」
もう一度額に触れようとした彼の手を遮り、薫はなんとか取り繕う。
「だ、大丈夫よ、やあねぇ。少し休んでいれば良くなるわ」
そうか、と微笑み彼は立ち上がる。
「では朝食を持ってくるでござるよ。食べられるだけ食べて、後は休むと良い。今日は出稽古の予定はなかったのでござるよな?」
うん、と薫は微笑み、彼も応えるように笑顔を見せる。
「ありがとう…」
立ち去ろうとする彼の背中に、聞こえるかどうかの小さい声で言った薫は再び横になる。
障子に手をかけ、立ち止まった剣心は、振り返りとても優しい笑顔を浮かべた。
「薫殿は…」
耳まで紅く染めて立ち去った彼を見送り、薫は胸が熱くなるのを感じた。
―薫殿は、もう一人ではござらんよ。弥彦や左之達、そして拙者がいる…。
「ありがとう、剣心…」
彼の言葉を胸の奥で噛み締める。
―私、本当に良かった…。剣心、弥彦、皆に逢えて…―
薫は大きな瞳に浮かんだ雫を軽く拭い、その目を閉じて、愛しい人が再び訪れてくるのを待っていた。
開いていた障子の隙間から、彼女の心のような、明るい陽射しが差し込んでいた。
END
|