蕾〜つぼみ〜
小国診療所に美人の女医がいる。
と、そんな話が出たのは東京府のとある場所。ここで時々仲間内だけで賭博をしている。
賭博は御法度なのだが血気盛んな年頃の若者達には欠かせないものだった。
左之助もそんな一人だった。
左之助は薫の目を盗んで剣心を連れてきたりしていたが、今日は薫に先手を打たれ
剣心は買い出しに行っていたのでつかまらなかった。
そんな理由もあって少し不機嫌だった左之助は話を聞いていなかったのだが、
そんなことに気がつかない鈍感そうな男は左之助に呼びかけた。
「ねぇ、左之さん。小国診療所にいる美人の女医の名前ってなんていうんすか?」
「あぁ?」と左之助は不機嫌な声で言った。
「名前を教えてくださいよ。小国診療所にいる美人な女医の。」
わくわくした感じで周りの仲間達も左之助の返事を待っている。
「美人?誰だそりゃぁ。」
左之助は真面目に気がついていなかった。
まぁ、話を聞いていなかったのだから当たり前の事なのだが。
「またまたぁ。本当は知ってるんじゃないんすか?教えてくださいよ。」
「小国診療所っつうと女狐のいるところだったか。」
この男は自分に関係のないことは面倒くさいと言ってすぐ忘れてしまうのだ。
「やっぱり知ってるんじゃないっすか。」どっと話し声が聞こえる。
「確か、高荷恵だったような・・・」
左之助は口にくわえていた魚の骨をくっと上向きに上げながら話し出した。
「高荷さんか。」
「恵さんだって。」
左之助の話を聞いた仲間達がわいわいと騒ぎ出した。
左之助は気にしていなかったためか知らなかったが噂は街の若者達の間に広がっていた。
時は明治。女医がいるのはとても珍しい話。
それも美人だというのだ。若者が放っておくはずはない。
診療所には毎日若い男がつめかけて大繁盛だった。
『あの女狐が美人?!』
それは左之助にとってショッキングな出来事だったらしい。
賭博の帰り道もずっと考えていたのはその証拠だ。
左之助が赤報隊に志願したのはまだ幼い頃。
そして最も尊敬する相楽総三が処刑されてからずっと喧嘩に明け暮れていた。
それは絵に描いたような女っ気のない生活で、女性を女性と見ない彼の性格を
作り上げた原因の一つである。
だからすごく身近な恵が、美人女医として評判になっているのがよく分からなかった。
しかし何よりそんなことをいつまでも引きずっている自分に腹が立っていた。
いつもの帰り道にも桜の花が美しく咲き、春の季節を伝えていた。
しばらく歩くと目の前に噂の本人が姿を見せた。少し驚いたが、後ろから眺めていた。
いつものように薬箱を持って歩いているが今日は少し重そうな感じだった。
が、この男には剣心のように持ってあげようと言う優しさは持ち合わせていない。
自然と恵に追いついていく。
「あら。」恵はようやく左之助に気がついた。
「おう。女狐。」
「丁度良かったわ。ちょっと薬箱持ってよ。」
「あぁ?何で俺が。」つべこべ言うんじゃないと恵は薬箱を左之助に持たせた。
しぶしぶと薬箱を持った左之助は横目で恵を眺めた。
豊かな黒髪は華奢な背中を隠しながら風に揺れ、
深い海のように濃い藍色の瞳はきりっとして凛とした美しさを醸し出していた。
「まぁ、仕方ねぇか。」
左之助は思わずぽつと呟いた。
恵は突然呟いた言葉に「え?」と驚き「何が仕方ないのよ。」と尋ねた。
「べ・・・別に何でもねぇよ。」と咄嗟に答えたものの、
実は恵以上に自分の発した言葉に驚いていたのだ。
仕方ねぇって何がだ?
街の若者の中で噂になるのがか?
美人女医ともてはやされるのがか?
あいつらが名前を聞きたがっていたのがか?
それとも・・・
どうしちまったんだ。
今日の俺は。
本当におかしい。
左之助は困惑していた。冷静な恵がそれに気がつかぬはずがない。
左之助より少し前に出て後ろ向きに歩きながら顔色を窺って話しかけた。
「あんた、今日はおかしいわよ。」
そんなこと自分がよく分かっているんだと不機嫌そうな顔をした。
返事がないので恵はそのまま後ろ歩きに足を進めていった。
「きゃっ・・・。」
恵は桜の木の根に足を引っかけた。
後ろ向きだったので気がつかなかったのだ。
しかし、その体はバランスを崩すまえに支えられた。
左之助の左腕によって・・・
状況が状況であっても初めて抱く女性の・・・恵の体は柔らかく、いい香りがした。
うぶなこの青年は耳まで真っ赤にした。恵の方も白い頬を赤く染めていた。
咄嗟に支えてくれた左之助。それも左手一本で自分の体を支えている。
今まで年下だからと思っていたが、その腕はがっしりしてたくましかった。
お互いに診察の時にも近付かないような距離にいたのでへんに意識してしまったのだ。
「あ、有り難う。」恵は下を向いてうつむきながらお礼を言った。
左之助も魚の骨をくっと上向きに上げ、頬をかきながら「お、おう。」とうなずいた。
満開の桜の下で生まれた小さな一つの蕾
いつか咲くのを夢見て・・・
END
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